82:ヘボン博士
宣教師であり、医師のヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」の発案者であることや明治学院の創立者であることでもその名が知られていますが、当ホテルにとってなも実に大切な人物です。
1870年(明治3年)、当時18歳の金谷善一郎と日光を訪れていたヘボンの出会いから当ホテルの歴史ははじまっていた、と言っても過言ではないかもしれません。
来晃したヘボンを、この時に自らの屋敷に宿泊させたのが、善一郎でした。
その2年後、1872年(明治5年)に再び来晃したヘボンは善一郎から夏の間、屋敷の二階を借ります。
そして、ヘボンの「外国人用の宿の開業」のアドバイスを元に善一郎は武家屋敷の様式のまま宿を開業します。
以前、金谷善一郎と小林年保の出会い(再会)についてご紹介しましたが、それを遡ること約20年。
ヘボン博士との出会いもまた、今も神橋脇の坂の上に“お迎えする空間”として、または目には見えないさまざまな形としても「宝物」となっているのです。
金谷眞一の手記「ホテルと共に七拾五年」にこのようなことが書かれています。
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博士がこうして夏を過ごす中に手真似を用いたかは如何かは知らないが、英語を話すことの出来ない父(注:善一郎)との間に、種々の四方山話が交わされたことは想像に難くない。父は扶持を離れた苦境も話したことと思う。こうして儲けを抜きにしたことから生まれた関係と云うか、友情と云うか、そうしたものはいつも美しく続いて行くものでものである。そして意外の収穫を収めて行くものである。
博士は世の変革に遭遇したが昔の武士の道徳を堅く守りつつも、如何してもこの新らいし(ママ)世の中に追いついて行こうとして苦悩している父に、この時一つの大きな示唆を与えて呉れた。
「今後外国人が日光廟を慕って来ることと思う、特に涼しい日光に東京横浜の夏を避けて来る人が年々増してくると思う、自分も来年は友人を連れて来るから室を出来るだけ多く提供し、家計の補いとしては如何か」。
「ホテルと共に七拾五年」金谷眞一・著
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開業から150年を経た現在でも、フロントの裏側には善一郎、イザベラ・バードの肖像と並んで、ヘボン博士の肖像がございます。
【関連項目】
48:小林年保と金谷善一郎の再会
小林年保と金谷善一郎の再会
47:善一郎と二人の息子
善一郎と二人の息子
2:金谷善一郎
金谷善一郎