76:ヒゲ

発展期を牽引した、金谷善一郎の二人の息子。金谷眞一と金谷正造(山口正造)は、共に立派な髭を蓄えておりました。

1931年(昭和6年)、山口正造(富士屋ホテル3代目社長)は万国髭倶楽部を創立します。
入会の条件は2インチ(約5cm)以上の髭があることで、世界10カ国から、43名が登録しました。
ただし、髭を剃ったら退会しなければならなかったそうです。
政治外交に関わらない世界的団体を組織して会員相互の交友を深め、国籍人種の区別を超えて基本的に平和と友情を目的としてました。

髭について、眞一は著書「ホテルと共に七拾五年」で、このようなエピソードを披露しています。



私は弟正造と共にヒゲを生やして居った。このヒゲを、私は昭和六、七年頃まで生やしておったが、弟は昭和十九年脳溢血で倒れる迄つけて居った。そして、世界ヒゲ倶楽部迄つくって、海外迄彼のヒゲは有名であった。
私共は商売上、お客様に覚えて貰い易い様にすることが必要だ。その為にはヒゲはもっともよい目標となる。それも並大抵のヒゲでは駄目なので、美髭と云われる様によく手を入れてヒゲを生やして居ったものだ。
(中略)
一番困ったことは、弟と間違えられることだった。富士屋ホテルに居たお客様が、日光に来て私の顔を見て「お前どうしてこんなに早く箱根から日光へ来たんだ」と私の顔をシゲシゲ見ること等は何遍あったか判らない。
東京等で見知らぬ人に肩を叩かれて「山口君しばらく」等と言われることも度々あった。



髭はホテルや兄弟のトレードマークとなった一方で、弟と間違えられることもしばしばあったようです。(二人、本当に似ています!)
しかし、眞一はヒゲを剃ります。



然し或日私は、こんな有名になったヒゲを剃ることとした。それは東武鉄道に電車会社や、自動車会社を売った頃のことであったと覚えて居る。
根津氏がやって来た。私の鼻の下に、いつものヒゲがないので、「ヒゲを如何した」と尋ねられた。
「そりましたよ」「君も偉くなったなあ」。
それだけしか根津氏は言われなかった。然しその短い言葉の中には、千万語でも尽くされない含蓄があると思う。
ホテル商売のような客商売をしておるものが美髭を蓄えて居ることは、ふさわしくないわけなんだ。
閑院の宮様が来られたことがある。宮様は「金谷髭を剃ったか」と言われて、私の顔をシゲシゲ見て居られたことを記憶して居る。その時殿下はまだ美しいヒゲを蓄えて居られてあの気品と、威厳を備えて居られた。ヒゲは宮様にはふさわしいが、ホテルの主人には不向であったのかも知れない。

上記引用はいずれも「ホテルと共に七拾五年」金谷眞一・著



長い時期トレードマークだったものを捨てるには何かの悟りがあったのかもしれません。
ここでも兄弟の仲の良さがうかがえ、さらに、当時の工夫や身嗜み、そしてかつてよく「分」という一文字で表せられたものなどが垣間見えるようなエピソードです。

【関連項目】
47:善一郎と二人の息子
善一郎と二人の息子