74:接収の記憶
1945年(昭和20年)10月17日、当ホテルは米軍に接収され、保養所となりました。
以降、1952年(昭和27年)の接収解除まで、実に7年に渡って接収は続きました。
さて、まず少し時間を前に戻して戦前、特に戦争前夜の頃のホテルはどのような様子だったでしょうか。
金谷眞一はこのように回想して書き残しています。
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支那事変が始まってから、だんだんと統制が強化されて来た。そしてホテルの食糧は厳しい監視をされる様になって来た。
然しこの様な情勢になるにつれても外貨獲得は絶対に必要である為、ホテル経営の基礎資材である肉、バターの配給等は少ないながらもあった。
然しお客の数は、昭和十五、六年頃となると、だんだん減って来た。
(中略)
グズグズして居る中に、英米との関係は、益々悪化する。軍部のスパイに対する活動は、神経質になって来て、凡有外国人に対して、刑事か憲兵が附添って、その行動を見張る様になってきた。
各国の外交官でも宿泊しようものなら、それこそ大変の騒ぎである。警察や憲兵の神経は、ホテルに集中されるという状態だ。こんな時代を後から考えると、よくも神経衰弱にもならず、通して来られたものであると考えるが、その渦中に居ると案外平気なものだ。
この嵐を前にした様な、不気味な空気の中にあって吾々は、軍部が目の敵とする外客の、接遇をやらなければならなかったのだ。
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それでは、戦中のホテルはどのような様子だったでしょうか。
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英米との関係が悪化していつ戦争と云う不幸な事態が発生するかも解らない様になって来た頃から、如何してこのホテルを維持して行くか、私はまことに焦慮煩悶させられた。不幸にして戦争になった場合の見通しは全然つかない。
(中略)
従業員の中で身体が壮健で働き盛りのものは挺身隊にとられる、招集されて戦場へ行く、ホテルの事業の前途に見切りをつけて、軍需工場に転職して行く、と云う様に、一人減り二人減りと云うわけである。
(中略)
この土地にある古河電気精銅所に於いても、労働者は日に日にその数を増して来る。挺身隊が続々繰り込んで来る。そして、工場に働く工員の数は、二倍にも三倍にも増してきた。そうなるとこうした挺身隊の宿舎が必要となる。
「金谷ホテルがある、あれを挺身隊に使え」と云うことになってきたのも勢いの赴くところ致し方なかったと思う。
ホテル計りではなく日光町全体の宿泊設備がこうした状態に直面をして居る時であるので、挺身隊の宿舎として使って貰うより方法がなかったとも謂える。
この時幸いにして金谷ホテルには女子挺身隊が配属されることになった。そこで新館全部を解放してその宿舎に当てることとした。
何百畳と云う畳が運び込まれる、何百枚と云う布団が運び込まれる、ホテルの姿は日一日と戦争を狂気の様に遂行して行こうとする国の姿になってしまった。
それでも挺身隊が全部を占有して終うと云う訳ではない。他の部分は空いて居た。
すると或日これを学習院の初等科生徒の疎開として使い度いとの申し出があった。そこで私も空いて居るこの建物を使わせないと云う理由はない。
それに、皇室の関係の方々、例えば皇太子殿下(※)や義宮様等も日光にある各御用邸を疎開に利用される為に、金谷が学習院の疎開場所として必要であると言われれば、これをお断りする理由もない。是非そうしてあげなければ、私の顔が立たない。こう考えて学習院の生徒の疎開場所として提供することとした。
皇太子殿下や義宮様は、他の日光御用邸に分宿されたが、毎日の授業はホテルに特に設けられた教室で行われた。
(中略)
昭和二十年八月十五日の陛下の終戦の御言葉は言々句々、肺腑を抉られる様に悲しかったが、何かしら救われた様な心地もした。そしてホテルの進路も何ん(ママ)とかどこかに開いて行くのではないかと云う、微かな安心感がほのぼのと心に湧上がって来る様に感じられた。
(※)現在の上皇陛下
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そして、戦後。
接収中に来晃したアイゼンハワー参謀総長(後の大統領)とのやりとりついて、眞一はこのように書き残しています。
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(アイゼンハワーから眞一へ)「一体ホテルの接収に相当した料金を、日本政府から貰って居るかね」との質問である。
その当時は終戦から一年も経っていない時分である。
心ないアメリカの軍人は、物資の欠乏の極にある日本の状態も考えず、随分無理なことを言って私共を責めたものだ。
それに日本政府としても財政が極度に窮乏して居る。有様で、ホテルの接収料金等が満足に払えるものではない。
三ヶ月も、四ヶ月も滞る有様であった。そこで私は日本政府の金は中々出ないが、何んとかやって居ますよと答えた。
この話を聴いて居られたアイゼンハウアー大将は「米軍は、それでは金谷familyに面倒を見て貰って居るんだねえ、まことに有難う」と言われたことを覚えて居る。
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また、同書の「アイケルバーカー中將の厚意」にこのようなエピソードがあります。
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終戦の翌年の春アイケルバーカー中將が日光に来られた。私は中将(ママ)を案内して東照宮へ行った。
中将は幼い時代に日本に暮らした人であるから、東照宮に対する概念をもって居られたことと思う。
私の案内で詳細に見られたアイケルバーカー中将は私に「終戦後このお宮を保存することで困ることはないか、何ん(ママ)でも自分で手伝うことがあれば遠慮なく云って呉れ」との話である。
私はその時鐘楼の側に中将を連れて行った。そしてその建物の「釘かくし」に使われて居る真鋳の金具が、スーベニアーとして心ないアメリカ兵隊に盗んで行かれる。この儘にして置いたなら何を持って行かれるか知れない旨を話した。すると将軍は「それは困ったことである」と言われて深く考えて居られる。
私共は石段を下りて来た。
何んの話であったか忘れたが、その時徳川公爵の話をする必要があったので私が Mr.Tokugawa と言い出した。将軍は私に、何故 Prince Tokugawa と言わないかと言う。私は戯言を交えて「アメリカが公爵等と言ってはいけないと言うから、そう言えないのですよ」と言った。
将軍は沈痛な顔をして「馬鹿な戦争をしたもんだ。日本が真珠湾の攻撃をしなかったら、こんな戦争はしないで済んだろうに」とまことに慨嘆に耐えないと云う表情をされた。
その翌日第八軍の命令で数名のM・Pが来た。そして東照宮の護衛に二ヶ月半も当って呉れて、この国宝を守って呉れた。
その後三度も日光へ来られた将軍とは、いつも十年の知己の様に私は親しくして居た。
「ホテルと共に七拾五年」金谷眞一・著(以上の引用は全て同書から)
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この他にも、眞一はそれまでの交友関係のあったアメリカやイギリスの友人の名前を挙げて、その後の交流や変わらぬ友情について同書に多く記してします。
これもホテルに残る証言ですが、「進駐軍からアメリカンクラブサンドを教わった」といいいます。
戦争とその後の接収を経験したホテルは、戦後78年、接収解除後71年を経た今でも、各国からのお客様をお迎えしております。
こうした記憶とその記録が残っていることが、宝物の一つとなっています。