56:T型フォード

二代目社長金谷眞一は、1914年(大正3年)に一台のフォード社の自動車を手に入れました。

駅とホテルの間のお客様の送迎に使用したほか、近隣の観光にも利用しました。
ホテル業での車の有効性を感じ、その後14台のフォード社製の自動車を購入。タクシー事業もはじめました。
眞一の書いた書籍に、次のように経緯が残っています。



大正三年八月の或る日、私はホテルの用事で横浜に行った。
山下町の仲通りを歩いて居ると、号外売りの鈴の音がする。新聞売子が第一次世界大戦の勃発を知らせて、狂気の様に叫んで居る。世界が挙げて戦争に引き込まれる危険をはらむ欧州の一角に起こった戦争の渦は横浜に居住して居る外国人には、大きな衝撃であったに違いない。
機敏に立ち廻る人の中には、本国に引揚げる用意をして居る人もあった。
従って彼等の使っておったフォード自動車の中古品が売りに出る様な訳であった。
その値段は八百円位であった。
私はこれを買うこととした。
運転には大した経験はないが、機械をいじることは好きであったので、その当時日光に来る客の車を、いたずらして運転の基礎知識位は、身につけて居った。勿論横浜日光間の長距離を運転する程の腕前ではない。
然し戦争勃発の興奮と、自動車をふとしたことから手に入れたと云う喜びとが、私を刺激した為だろうが、私は大胆にも横浜から日光迄、此の車を運転して帰ることとした。
随分乱暴だった。今考えると冷汗が出る感じがする。
然し何んと云っても不安であるので、この自動車の持主であった家に勤めて居たボーイに、帰りの汽車賃を出すからと言って同行を頼んだ。
昔のことであるから、警察官も今日程やかましく言わない。
無免許で怪しげな運転をして横浜を出発した。栗橋には、今の様な完全な橋がなかったので、自動車を渡し舟に頼み、利根川を渡ると云う苦心をしながら、六、七時間を費して日光に帰ってきたことを覚えて居る。
月給十五円で運転手を雇って、客の送迎やら、日光付近の見物に充て、よい結果をあげた。
当時日光の観光客は、人力車に乗るか、電車を利用するかの時代であったので、この自動車は、丁度時代の要求に合致した訳である。
間もなく尙二台の自動車を借入れて、自動車営業を、本腰に始めた。
(中略)
営業の視察を兼ねて、米国に行った。そして当時日産千五百台と言われた、アメリカ・デトロイト市の、ヘンリー・フォードの自動車工場を見学した。
その時私は、フォード翁に、私のやって居る自動車営業のことにいて説明して、この事業の将来は、日本では有望と思うが、資金の面では行きづまって、手を拱いて居るより仕方がないと云う現状を説明した。
翁はその時「自分の会社でも、日本に代理店がある。君の話は日本の代理店に、よく伝える。そしてその店を通じて、出来るだけの便宜を与えてやろう」と云われて、甚だ好意的に私を激励してくれた。帰朝後、フォードの代理店である、セールフレーザー会社の支配人に、この話をして、よく面倒を見て貰った。フレーザー氏は「何台あればよいのか」と云われるので「十台で結構」と答えて置いたが、十四台送ってくれた。
これを母体として営業をして見ると、相当の収益がある。然し人力車や電車の範囲に立入って来るので、反対が町の中から起こって来る。そこで儲かる商売であるから、金谷が独占することもないと、町の人にも参加して貰って、資本金、一万円で、日光自動車会社を設立した。
業績は非常に順調で、その年の四月ー九月迄の半年間で、十四台の自動車購入代品(ママ)を、セールフレーザー会社に全部支払ったことと覚えて居る。

「ホテルと共に七拾五年」金谷眞一・著