139:日光観光ホテル

奥日光の中禅寺湖畔に佇む、中禅寺金谷ホテル。
この起源をご存知でしょうか。


第一次世界大戦後の1930年代。ヨーロッパでの観光熱が上昇し、少し前の1920年代後半には、運輸網が発達していました。これに呼応し外貨の獲得や国際社会での地位向上を図るため、国際観光政策として外国人観光客の受け入れ施設の整備が必要になります。
このような国の動きに、日光国立公園の指定や日光が1940年(昭和15年)の冬季オリンピックの候補地になったことも追い風となり、「日光観光ホテル」が当時全国に「国際観光ホテル」として建設された最後のホテルとして建設されました。1940年(昭和15年)のことでした。
カッテージインの開業から実に67年。
当時の社長の金谷眞一は、新たな挑戦をすることになります。

後に書かれた手記にはこのようにあります。



私は腰に弁当をさげて、中禅寺の附近を、適地を求めて歩いた。そして現在の地、曲和田に適地を見付けた。
ホテルの建設には、水と電気が必要である。この予定地は中禅寺の湖面に面して、水は有余る程あるけれども、湖面よりは四、五十尺も高いところにある。それにしても、湖水の水は不潔で、使う訳にも行かない。
幸い根津氏の所有する発電所の水利権があるこの地獄沢の水を、分けて貰って水道を約一哩半も敷設して用水とした。この源は湧き上がる水源であるので、その水の綺麗なことは言を俟たない。
電気は近所の菖蒲ヶ浜の発電所から貰うことにして、段取りが出来たので、建築を開始した。
男体山の溶岩が蓄積した様な場所を整地して、取りかかる工事であるので、随分苦心をしたが、それも出来上った。(原文ママ)
そして、金谷ホテルの事業は鬼怒川、中禅寺、日光とその翼を拡げて行くことが出来たのである。

「ホテルと共に七拾五年」金谷眞一・著



その後、第二次世界大戦時の日本軍借り上げや、戦後の米軍接収などを経て、1965年(昭和40年)に「中禅寺金谷ホテル」と名称を改めます。

建設当時の建物は火事により消失し、現在の中禅寺金谷ホテルの建物は三代目に当たるものです。
波乱の運命を辿りますが、湖畔の避暑地の文化の面影を今に伝え、往時の観光に関する国策の遺産の一つであるとも言えます。



【関連項目】
123:ボートハウス
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74:接収の記憶
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64:ホテルと共に七拾五年
ホテルと共に七拾五年